憎しと思うこと、悔しと思うこと、決して許せぬと思うこと。

モノノ怪」海坊主・大詰め。
人の心の内を問い掛けてきた今エピソード。源慧の心象世界と現実を行き来する演出は不安を煽る。
そして虚ろ船の蓋をお札の力でこじ開けたり、天秤で“真”を手繰り寄せたりとますます薬売りの道具が万能に。


海坊主・二の幕レビュー / のっぺらぼう・前編レビュー
以下ネタバレ。




海坊主は源慧自らの恐怖を覆い隠し、虚ろ船を見続ける心そのもの。既に人柱として役目を果たし、海と一つになったはずのお庸に対する無意味な呵責から逃げ、誤魔化す事で生まれ出た分身…彼自身がその“真”であった。物の怪は人の外にあるだけではない、心の有り様でどのようにでも化けてしまう。
源慧とお庸の本心…同じ内に秘めたものであるが、一方は懺悔の念に押し潰されそうになる程の未熟な心、一方はあまりにも真っ直ぐに相手を思い慕い続けた心。
彼は欲が生んだ恐れから解放され、心を取り戻す為に自ずとリュウの三角へ向かう運命だったのかもしれない。
ラストは五話目にして化猫以来の大一番。剣が放たれ、ホーミング退魔で斬る。鏡は分身=心であるもう一人の源慧を斬るという演出なのか?


他人に吐露するのさえ畏怖してしまう愚かな部分、それは所謂心の闇。
しかしそれがあってこその人間であり、源慧はそれが人が人として在る所由だというのに気付くのがあまりにも遅過ぎた。兄妹愛を遙かに超えた何か、それから50年もの間逃げ続けた彼はやっと自分の人としての姿と共に、お庸の心も受け入れたのではないだろうか。


薬売りが序の幕で“神もアヤカシも同じようなもの”と言っていたが、神が凋落したものが妖怪という解釈もあるし、人柱となったお庸が怨みを抱き、物の怪になったという疑念が最後まで捨て切れなくても仕方がなかったな。
で、最後の佐々木兵衛のシーンは一体…伏線?薬売りがガン見してたような気はするが、こいつも何か生み出したか。


モノノ怪 弐之巻 海坊主