『ドッグヴィル』(SAMPLE版)

人間の五感はいずれかを遮断、排除されると他の感覚がより鋭くなるというのは有名な話だが、映画に置き換えるとどうなるだろうか。


この作品はアメリカの"ドッグヴィル"という架空の廃坑村が舞台である。
とはいうものの、上記の場所である事を認識できるものが映像中存在しない。
なんとこの作品には背景が無いのだ。
周囲が昼は明るく夜は真っ暗になるだけで、
あるのは物語を描く上で必要最低限の生活小道具、黒い床には数軒の家の間取りと通りの名など地図表記のようなのが書かれているのみ。
生き物といえるのも人間のみで、果樹園の木を除いて植物もなければ動物もいない*1
その上で役者達はさもいろんなものがあるかのごとく演技をする。
一見すると殺風景なただの舞台劇である。


そしてそのドッグヴィルにギャングに追われた一人の美しい女、グレーシー(ニコール・キッドマン)が逃げてくる。
住民達は何者だか分からない彼女を嫌々ながらも匿う事にする。
グレーシーは住民達に気に入られようと彼らの手伝いを進んで行い、次第に住民達も彼女と打ち解けるようになるが…。
というのが冒頭の展開。


正直、斬新すぎる映像に最初はとまどった。
役者がパントマイムよろしくドアを開ける仕草をするとどこからともなく鈍い開閉音がし、
さらに手前で演技している役者のはるか向こうで障害物に隠れて見えないはずの屋内の住民が家事をしたり、くつろいでいる様子が丸見えなのである。


ただあえて無くしたとは到底思えない。
いらない…そうこの作品に背景は"必要ない"のだ。


中盤にさしかかるとそんな状況が当たり前に見えてくる、慣れてきただけかとも思ったが
むしろ本来あるべき家、遠くにそびえる山々、美しい空がもしあったとしたらとても邪魔くさかったのではと思えてくる。
この作品で描かれるのは人間そのものであり、他の要素で飾り付ける必要性は全くない。
先述した通り、背景が存在する意味がないのだ。


監督の意図も見え隠れする。
どこの国でも僻地というものは外部から来る者を拒み、
さらにプライベートなんてあったものじゃない。
村の住民全員が(本当はあるはずの)壁を突き抜け、
グレーシーに視線を向けるシーンはなかなかの恐怖である。
閉鎖的な社会の中の否応なく解放された空間。
その一つの例がこのドッグヴィルという村であろう。


ただエンディングを迎え、やはりあの空間は異常だったと思わせられる。
あってはならない世界…グレーシーもそう思ったからこそ最後にあの行動を起こしたと思うし、
それが彼女ドッグヴィルでの経験の結果であると自分は解釈した。
言えることはグレーシーはやはり村にとって部外者であり、
間違いなく"いらない"人間だった。
だから彼女自身もここにいる必要はなかった。
そしてドッグヴィルの村もまた然り。


無意味な時間、無意味な空間、
意味がないものは無に等しい。
同じく必要ないものは淘汰されるべきであり、
もしそれが在るのであれば、消さなくてはならない。
それを決めるのは結局、我々人間なのだと思う。


あ、そんな事を考えるのはやはり「傲慢」か??


この本編観た後の『ドッグヴィルの告白』はさぞ面白いだろうなー。
でもどっちを先に観るべきだったろう。


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*1:床に描かれているが